語り継ぐ戦争 空襲された青函連絡船・松前丸から救出された餌取利男さん

朝日新聞社
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語り継ぐ戦争 空襲された青函連絡船・松前丸から救出された餌取利男さん

1945年7月15日、函館湾の奥にある七重浜の少し沖で、右にやや傾いた青函連絡船・松前丸(3485トン)が、ゆるゆると煙を上げていた。
 松前丸は石炭を燃料とする蒸気船だ。だが煙は煙突からではなく、船首に近いデッキから上がっていた。乗組員の遺体が焼かれていたのだ。当時18歳だった餌取利男さん=函館市=は、松前丸のボイラー室でスコップを使って石炭をくべる「火手」を務めていた。しかし、この日はスコップではなく、シーツを手にしていた。骨が運ばれてきた。シーツにくるんだ。
 惨劇は前日に起きた。松前丸は、船内に鉄道車両をそのまま積み込む鉄道連絡船。早朝、石炭などを載せた貨車26両を積み、函館港の岸壁を離れた。その約30分後、米軍機・グラマンが飛来した。
 青函連絡船は、当時の主要エネルギーの石炭を北海道から本州へ運ぶ動脈だった。特に大戦中は兵器工場が供給を求めており、石炭の輸送は国家の命運を左右するとまで言われた。米軍はこのルートの遮断を狙ってきた。
 船底近くにあったボイラー室でも、バラバラバラと「豆をばらまくような音が聞こえた」。機銃掃射だ。船内の電気が消えた。
 船は函館湾から津軽海峡に出る寸前、函館山西側の穴澗海岸沖まで来ていた。水深のある海峡に出ると沈められてしまう。船長は、湾の奥の七重浜へ向かうよう乗組員らに指示した。
 ところが、気がつけばボイラー室は自分1人。仲間はみんな避難したのだ。だれかが石炭をくべなければ船は七重浜までたどり着けない。ふだんは2~3人で担当する九つの投炭口に、1人で石炭をくべ続けた。
 七重浜までどれだけ近づけたかは分からない。突然、大きな衝撃が船を揺らした。爆弾が右舷中央のデッキを貫き、機関室を直撃した。ボイラー室と機関室は厚さ3センチほどの鉄板で隔てられており、ボイラー室はそれほど壊れなかったが機関室で火災が発生した。
 「船と一緒に沈む」
 出口を探すと、上の方に「かすかな光が」。いつもは閉じられている扉が、爆風で動いたのか、1センチほど開いていた。光を頼りに手探りではしごを上る。扉を開けると、船の中段にある客室の前に出られた。
 客室が吹き飛び、木材が3メートルほど積もっている。それらを海に投げ捨て、半分ほど残った木材の上をはって進んだ。廊下を走って左舷側に回ると、石炭を中心に運ぶ木造船「第37蘭丸」が助けに来ていた。救出された最後の1人だった。
 空襲は14、15日の2日間にわたった。青函連絡船は12隻が被害に遭い、10隻が沈没・炎上。死者・行方不明者は425人にのぼった。松前丸は七重浜沖で座礁し沈没は免れたが、乗組員95人のうち22人が死亡した。

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